写真は件の屏風を前にして解読結果を確認する鵜野高資氏(左)と書道家。
 
 屏風は現在の正木家当主の曽祖父(聳山)に当たる人が政治家であり、漢詩サロンの中心人物でもあったので、自分宛てに贈られてきた手紙や漢詩作品のうちで重要なものを選んだものらしい(屏風表装には祖父に当たる人が行ったという)。

屏風には11通の手紙と漢詩が掲載されているが、手紙の中には学校設立に協力した正木氏に宛てた新島襄からのお礼の手紙も含まれる。

 漢詩作品の一部を右に示す。書道家によれば、使われている詩箋は中国製の珍しいものであり、書体も立派なものであるという。


 「塘に沿うて 短々 長々の萩。水を送りて来々 去々の魚。況や是れ 初秋 三五の夕。錦鱗 月を楽しんで 汀蕖に躍る」と淀川の初秋の風景を詠んでいる。

 作者は玉鉤(サロンのメンバーの一人と思われる)、正木聳山に詩の批評を請うてきたものと思われる


 余談ではあるが、筆を持たなくなった現代人にとって、草書を読み解くのはなかなか大変な作業である。漢詩の場合には規則性があるので、反って手紙よりは読み取りやすい面もある。謎解き的な要素もあり楽しい作業でもあるのだが。

京都の生活 第149回 旧家の屏風 (2013.5.22)

漢詩連盟の活動を通じて、長岡京市の漢詩活動にも首を突っ込むことになり、旧家に屏風として保存されている漢詩作品の解読に関わることになった。先日、活動の中心人物の案内でその旧家を訪れ、屏風の実物を見せていただく機会があったので簡単にそのいきさつを述べてみたい。

 長岡京市を中心とする旧乙訓郡と呼ばれた地域は、桂川・淀川の西側に位置し、東側に西山を背景にする丘陵地帯である。西国街道が通っているために、旅人の行き来が盛んで、商業や文化の面でも刺激が多く、のどかな農村でありながら文化的なレベルは高かったものと思われる。今回の屏風を始めとする古文書の発掘はこの地域の庄屋クラスの旧家正木家に伝わる文書を、漢詩の発掘という観点から鵜野高資さんを始めとする地域の人々の手で行われたものである。

明治時代の始め頃、この地域に漢詩サロンが存在し、京都市内から高名な漢詩人を呼んで、地域の人達は漢詩の勉強と作詩活動に励んでいたという。

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